先生たちへ、大人たちへ

先生たちへ、大人たちへ

新学期が始まりましたね。私の子どもも小学校に入学しました。先生方が大変丁寧に子どもたち、あるいは私たち保護者に接してくれるのを感じ、大変ありがたく思います。

と同時に、学校現場で心理の仕事をさせていただいている者として、こんなことも考えます。

学校の先生方の仕事は、少なくとも私の祖父母や親の世代とはずいぶん変わってきているように思います。既に私の子どもの頃の先生たちともずいぶん違うように思います。昔の先生方に比べて、学校の先生方の仕事は、煩雑さを増しているように思いますし、不自由なものにもなっているように思います。

そんな中、教師という仕事を継続されていらっしゃる先生方に、少しお考えいただきたいと思うことがあります。ある調査結果で、教師の多くが、学校での体験、家庭での体験といった自分が子供時代の体験と教師になろうと決めた動機が関連していると答えているということが示されたようです。皆さんはどのような思いで教師になられたでしょうか。

私は心理士/師であり、大学の教師でもあります。私は実は小中学校の頃、あまりいい子ではなかったように思います。自分の意地悪な気持ちを止められないことがありました。それを止められないのと同時に、そんな自分に傷ついている部分もありました。それは家でのフラストレーションや未熟である/思春期であるなどいろいろ理由はあったでしょうけれども、とにかく学校で自分はあまりうまく人にやさしく、仲良くできないことに心を痛めていました。けれど、学校の先生から見ると私はいい子でした。勉強も運動もそれなりにできましたし、先生が欲しい答えを言うこともできました。けれど先生たちに、私の自分の中の悪を見つけてほしい、私ははりぼてだと言ってほしいと期待していたように思います。というより、それを見抜けず、私をいい子だと思う先生の浅薄さに、失望していたという感じでしょうか。そして、私が受験の年、榊原事件が起きました。その事件を見て信じられない思いであったと同時に、自分の中の悪を恐れる気持ちになりました。私は自分の悪について未解決だけれども、本当に私の中の悪は、爆発することはないのだろうか、と怖くなりました。そして、悪について知りたいと思い、心理学の道を志しました。学ぶことを通して、多くの悪は、コンプレックスに由来していることを知り、実感するようになりました。悪とは悲しさや絶望に無自覚である時に形を変えて生じるものなのだな、と思うようになりました。もちろん、無責任から発生する悪や、本能としての攻撃衝動から生じる悪など、いろいろあると思いますが、いずれにせよ私は、コンプレックスから生じる悪に関心を強めました。このことは、今の私の仕事の仕方と少なからず関係しているように思います。

皆さん、どうでしょうか。時間のある時にゆっくり思いめぐらしていただければと思います。というのも、自分の中の悪やコンプレックスに無自覚であると、自分の行っている悪に気づかないからです。自分は正しい、善であると確信している時ほど、行っている悪に盲目になるのだということを、自分も含め、学校現場、福祉現場、子育ての現場で目にするからです。

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