投影性同一化の先:抑圧と表現
以前、投影性同一化のもう一つの形、として、こちらのブログに息子の例を挙げました。
もはや、息子は5歳になり、安心できる場面であれば投影性同一化のようなコミュニケーション形式を用いずとも、表現できる力を得るに至りました。
ある日のやり取りを例に、投影性同一化のその先を示したいと思います。
その日は母親である私がバタバタしていた日々が続いた後で、久しぶりに息子とゆっくりした夕方を過ごすことができていました。夫は仕事でおらず、息子のリクエストで息子の大好きなピクニックごっこをしながら、夕食をとっていました。
大好きなご飯を敷物の上で食べ、ママと楽しくもぐもぐ。そのうち、急に、、
「幼稚園いきたくない。もうお引っ越ししたい。」
と言い出しました。母としての私もびっくりしました。
何があったか聞くと、乱暴で、息子の手を踏んだりコートを汚されたりしていた子に、またビンタされたのだと身振り手振りで伝えてきました。
「それはひどい!」
と、母が怒って反応すると、その子に遊びに入れてと言っても入れてくれないとか、そのくせ自分達が遊んでると入れてと言ってくるので許してしまうのだ、と次々と話し始めます。けれども、話しているうちに、うつむき始めます。そうして急に抱きついてきて、泣き顔を見せないように私の胸元に顔を埋めました。
私は息子の背中をなでながら、背中は赤ん坊の時よりもずいぶん逞しく筋骨の硬さを感じられるようになっているけれども、体はまだまだ私の胸元におさまるほどに小さく、こんな小さな体で社会の中で葛藤しているのだなとしみじみ感じていました。
親としては、息子に強くなってほしいし、相手の家族にもいい加減にしろよと腹が立つし、お伝えしても同じことが起き続けている幼稚園にも腹が立ちます。息子が悲しんでいることが悲しいし、しかし、これが現実だと受け入れざるを得ないような感じもあり、複雑でした。
けれど同時に、以前の投影性同一化のような、非言語で伝えることではなく、言葉で状況を伝え、辛いと泣く息子が誇らしくも思えました。こんなにちゃんと辛さを語ってくれるのははじめてな気がしました。
30分以上、幼稚園での嫌な状況の話を聞きました。時々息子は遠い目をして、T君は僕を嫌いなのかな。。とも、呟いていました。そうかもしれないけれど、嫌われたからといって息子が悪いとも限らない、いや、息子のなにかが気に入らなかったのかな、など、私もあれこれ考えましたが、特になにもいうことなく一緒にそこにいました。
一通り聞いて、ママの言葉を待っているように見えたので、
「ママなら、叩かれたら腹が立つ。入れてって言っても入れてくれないくせに、勝手に入ってくるのも嫌。だから、来るなって怒るかもしれない。もしかしたら殴っちゃうかも」
と言ってみました。すると、なぜ私の息子なのにこんなにアグレッシブでないのかわからないのですが、
「僕は叩いたり、入れないとか言いたくないんだ」
と言いました。そういうのは僕にとって楽しいことではないと。それはもしかしたら、私たちの教育によって得た超自我あるいは価値観かもしれないけれども、それでも、自分の中の規範に従って生きているのだな、と感じました。私は、
それもいいかもしれない。けれど、ママは●●くん(息子)が一番大事だから、●●くんの心が嫌な気持ちが心に一杯になってゴミ箱みたいになっちゃうったら、嫌なの。ママは●●くんのことが一番大事だから。こうやってお話ししたら、心のごみは捨てられる?
と息子の胸の辺りをさすりながら聞いてみると、
「けっこう話せてよかったよ。僕お絵描きしたいなあ」
と、ピクニックごっこをやめて、画用紙を取り出しました。描いた絵は花火の絵でした。そこにいる自分の顔はニコニコとはしゃいだ様子でした。花火は中央に大きく描かれました。
朝、夫にその話をすると、夫は変わらずの乱暴者のそのお友達と家族に強い怒りを表しつつ、でも、ママが話をしてくれたから、僕はそれについて●●と話さないようにするね、と言ってくれました。それはとてもありがたい感じがしました。
今朝は早く幼稚園に行きたいと早起きしていました。親の支度が終わるのを待って、鬼の絵をせっせと描いていました。子どもに語る時間を与えることで、困難な社会での状況が子供の成長の機会になる感じがします。
嫌なことを言葉にできると言うのは、嫌な感情を自分のなかにためておくことができるようになったからです。そうならないと、言葉でとつとつと表現することはできません。彼がとつとつと表現することによって、私たちはその状況について考え巡らせ、意見を交わしあうことができました。また、彼も母とは違う考えを持っていることを表明し、自分がどう振る舞いたいか強く自覚するに至っていたようです。
この出来事は数日前のことでした。おそらく息子は時と場所を得るまでその思いを抑圧し続けることができ、適切な機会にそのことを安全に語ることができたのでしょう。
投影性同一化の先に待っている世界を息子に見せてもらった気がしました。