大人の事情とこどもの期待

大人の事情とこどもの期待

私は実は、結構怒りっぽい。自分の苛立ちで、家族に迷惑をかけてしまうことも多々ある。

子どもがまだ3歳ころ、私のイライラした様子に子どもが戸惑っていることを感じて、ああ、ひどいな、ダメな親だなと思った時があった。

「今、ママ怖かった?」

と聞いてみた。そうすると、

「僕が〇〇しちゃったから怒ってる?」と息子から意外な返答があった。

 

私は私の事情でイライラしていただけだけれども、子どもは、自分が親の怒りの引き金になっているのではないかとすぐに思ってしまう。世界の中心が自分と親なのだから仕方ない。

それで、

「ううん、ママはママの人生に怒ってるんだよ」

と、少し冗談めかして答えた。

それから息子は、今、ママは怒っているの?今、ママは僕に怒っているの?と確かめられるようになった(あるいは、ママは今僕が〇〇したから嬉しいの?泣いちゃうくらい嬉しい?ということも聞いてくるようになった)。

また人生に怒っているの?と怒ってくるようにもなった。

 

意外なほどに私たちは、3歳の私の息子のように、誰かから傷つけられていることを自分の弱さ、自分の問題、自分の欠点と結び付けて捉えている。それは、私の息子のように、親と自分しかいないような濃密な関係がそこにあったのかもしれないし、あるいは、傷つけた側の弱さを気づけなかった理由があったのかもしれない。

 

ここまでは、そんなに難しくない。

 

親であれ、教師であれ、支援者であれ、傷つきを持っていて相手を傷つけることがある、たとえ愛していても、良い大人であろうとしても。けれど、子どもあるいは、従属する者は、この人はそんな不完全な人間ではないとか、相手の力を強く信じているとか、また子どもの理由で、傷つけられたことを自分の問題と考えて、神経症的な痛みを維持してしまう。

 

これは、意外なほど身の回りに蔓延していると感じる。そして、これを認めることは結構難しい気がする。

 

難しい難しくない、は私の感想かもしれない。個人差があるかもしれない。また誰かと語り合いたいと思う。

語り合わないと何も分からない。3歳の息子と私との間ですらそうであるように。

 

だから何だということもないのだけれど、私が気になっている力動、無責任あるいは責任転嫁とこのことは関係あると思っていて認めてみた次第である。

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